大内 義長(おおうち・よしなが)

生没年 ?~1557.4.3
名前 塩乙丸、八郎、大内晴英
官位

大友義鎮の弟。母は大内義隆の姉。当初後嗣含みで大内義隆の猶子となるが、1545年嫡男大内義尊が誕生し後嗣の話は頓挫する。だが、陶隆房のクーデターに関し後継と目され大友家との調整も完了し、晴れて大内義長として迎えられる。防長両国では先代同様の領国体制だったものの、周辺国において地位低下が避けられず、安芸一国の主となっていた毛利元就に離れられると緊張が高まる。毛利討伐に陶晴賢共々出陣するが、厳島合戦で陶晴賢は戦死、最後は毛利に攻められ長府で自刃、大内氏は滅びた。