大友 宗麟(おおとも・そうりん)

生没年 1530~1587.5.23
名前 塩法師丸、五郎、新太郎、義鎮、入道宗麟、円斎、三非斎、ドン=サンフランシスコ
官位 左衛門督

大友家21代当主。1550年父・義鑑から廃嫡を宣言されるも二階崩れの変にて家督相続する。家督相続の翌年、父の代からの宿敵大内義隆陶晴賢の謀反により死亡、義鎮は陶晴賢に味方し、弟を大内晴英として大内家後継とする。肥前守護に赴任され、反大友の叔父・菊池重治を誘殺しと勢力拡大に成功していった。筑前・豊後・豊前・筑後・肥前・肥後と6カ国の守護を務め、日向・伊予各半国勢力に治める。

が、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を討つと敵対し、豊前の緊張が始まる。一時は将軍義輝の仲介で和解し、毛利氏は尼子攻めに専念することになるが、尼子氏滅亡後は、尼子残党の動かないときに九州が荒れることになる。秋月・筑紫・龍造寺の離反、一族高橋鑑種・立花鑑載の謀反は裏で毛利元就の画策があったとされる。元就の死後は北九州での大友優勢が確定する。

1573年家督を大友義統に相続するが権勢は保たれていた。日向にて島津との対決となるが、耳川にて敗れそれ以降大友家の没落が始まった。中央の豊臣秀吉の味方を依頼し、岩屋城の奮戦もありどうにか豊臣秀吉の九州征伐まで耐えることが出来た。大友家は豊後一国の大名となり、津久見の地で死亡。

1551(天文20)年ザビエルを山口より保護して以来キリスト教を保護し、南蛮貿易も盛んに行われた。イエズス会では豊後は都・下とならぶ三大教区の1つであり、信者獲得も熱心に行われた。名高い天正遣欧使節は直前まで関知せず、巡察使バリリャーノの独自施策だったようだ。

江戸時代小藩が分立した大分県にとっては、豊後全土を治め九州全土を窺った大友宗麟はやはり英雄だ。大分の3傑は大友宗麟、村山富市、指原莉乃だろう。