大久保 忠隣(おおくぼ・ただちか)

生没年 1553~1628.6.27
名前 千丸、忠泰、新十郎
官位 治部少輔、相模守

大久保忠世の子。11歳から家康に近侍。16歳の時遠江堀川城攻めで初陣。三方ヶ原の戦い後20歳にして上杉謙信への使者を任される。家康の奉書を扱う奉行職として重きをなした。1593年世子・秀忠の付家老となり、秀忠の補佐に当たった。秀忠が将軍となって後は幕閣一の実力者だったが、1614年京都にキリシタン禁圧で出張中所領小田原6万5千石を改易される。養女の山口重信縁組みの無届けが原因とされるが、本多正信の嫉妬もしくは政敵追い落とし、大久保長安事件の連座も噂される。井伊直勝に預けられ近江で死去。