織田 信忠(おだ・のぶただ)

生没年 1557~1582.6.2
名前 奇妙丸、菅九郎、信重
官位 出羽介、秋田城介、左近衛権中将

織田信長の嫡男。生母は生駒氏。1573年浅井攻めで初陣。その後は美濃明智城救援、遠江高天神城後詰め、長島攻め、長篠の戦いと父と併せて出陣。その後、岩村城攻めでは単独出陣している。1575年11月、父より家督を譲られ尾張・美濃と岐阜城を譲られている。実際には信長直属部将も多く濃尾2石にはまだまだいたが、濃尾2カ国の大名である織田家の家督を譲られた。雑賀攻めや松永久秀討伐、羽柴秀吉応援など連枝衆や佐久間信盛らの部将を率いて総大将として出陣を行っている。1580(天正8)年佐久間信盛・林通勝・安藤守就が追放されると、その与力の多くを新たに付けられている。1582年の武田氏攻めでは信長が美濃岩村にいる内に武田氏を滅亡させている。

基本的にそつなく軍統率を行っているが、一度だけ兄弟そろって能楽に打ち込みすぎて勘気を被ったことがある。信忠・信雄信孝の3人に脇差を与えられ勘気は融けているが、信長の子の内この3人は比較的特別扱いであった。

本能寺の変の時は妙覚寺におり、脱出出来る情勢にもあったが誠仁親王を禁中へ護送した後に二条城で戦い自刃している。織田政権の後継者がいなくなり、求心力の小さくなった織田家は、血統存続が精一杯となった。