織田 信雄(おだ・のぶかつ)

生没年 1558~1630.4.30
名前 茶筅丸、三介、具豊、信雄
官位 侍従、左近衛権中将

織田信長の次男。母は信忠と同じ生駒氏。1569(永禄12)年伊勢北畠氏を攻めたとき北畠具房の養子として大河内城を譲らせている。その後は伊勢一向一揆攻め、雑賀攻め、播州攻め、荒木村重征伐に従軍。天正7年伊賀に独断で攻め入り被害を被り、から折檻状を突きつけられている。1581(天正9)年再び出兵し伊賀を平定する。

と、ここで本能寺の変が発生。蒲生賢秀が保護した日野城の織田一族保護が手一杯だったとされるが、安土城を燃やしたのは信雄であると今に至るまで語り継がれている。清州会議では尾張を得るに留まる。岐阜秀信を離さない信孝への対抗として、秀吉から三法師の後見(臨時の織田家家督)として推されることになる。賤ヶ岳の戦い後、信孝を尾張野間で自刃させる。

その後秀吉と関係が悪化、秀吉との融和を図る家老を殺害し、家康と通じる。小牧・長久手の戦いで優位に進めるが、その後単独講和。越中攻めや小田原の陣に従軍する。徳川家康旧領への転封を拒み下野国烏山に配流となる。その後は名護屋で御伽衆を務める。

大坂の陣では大坂に居ながらも密かに家康に通じ、その後大坂を退去。大和と上野で5万石を与えられ、京都に住み長い余生を過ごした。