織田 信秀(おだ・のぶひで)

生没年 1511~1552?.3.3
名前 三郎
官位 弾正忠、備後守

織田信定の子。父・信定の代に門前町・港町として抑える津島を抑えており、信定・信秀・信長3代にわたる基盤となった。信秀は1532(天文元)年に守護代大和守達勝および奉行の一人織田藤左衛門と戦い和睦している。既に守護代の統制の域を出ていたことが伺える。 今川氏豊の那古野城を奪い居城とする。その後三河松平氏の内紛に乗じ安祥城を奪う。小豆坂の戦いで今川を破り、西三河での優勢を確定する。

一方で斎藤道三とも戦い稲葉山城を攻めた。が、こちらは結局和睦し、嫡子信長に道三の娘・帰蝶を輿入れさせている。

1541(天文10)年伊勢神宮に700貫文、1543(天文12)年内裏修理費用として4000貫文を献上している。1533(天文2)年に飛鳥井正綱を勝幡城に招いたときには、山科言継によりその邸宅の立派さが書き残されている。守護代織田達勝の清洲城については言及がないことから、すでに守護代・守護を上回る権勢だったことが分かる。一方で国内勢力は完全に敵対していたわけではなかったため討伐の必要も無く、信長の代に敵対すると始末していく必要が生じている。安祥城は太原雪斎に取られ今後の方策が必要な時に末森城で死去。

近年愛知県史が1552(天文21)年病没説を採用し、死亡年は1551年でなく1552年とされはじめている。