宇喜多 直家(うきた・なおいえ)

生没年 1529~1581
名前 八郎
官位

1534年、砥石城を島村豊後守に攻められ祖父・宇喜多能家が自害。父・興家と直家は備後へ落ち延びた。その後天神山城の浦上宗景に出仕、浮田大和を砥石城に攻め旧居城を奪い返した。その後豊後島村豊後守と婚姻関係にある中山備中守を奈良部城に誘殺した。1562(永禄5)~1563(永禄6)年頃から浦上家から独立の動きを見せる。毛利指揮下の三村家と対立する。三村家親を刺客を放って暗殺。遺臣軍と戦い撃破、三村家親の子・元親の軍も破り備中松山城に滅ぼしている。尼子氏に合力し毛利氏に攻撃を受け、毛利・宇喜多・浦上3度も絵の戦いとなる。これを義昭信長によって調停を斡旋され和議が成立する。その間、岡山城を改築し拠点とした。一瞬の平和が訪れていたが、その菅にも毛利~宇喜多ラインと織田~浦上ラインの対立の構図が浮かび上がってきた。

1574年、直家は浦上宗景と断交、小競り合いののち、浦上宗景の居城天神山を攻撃し浦上宗景を追放している。が、このあたりで宇喜多直家は織田家への投降を画策することになり、1579(天正7)年秀吉を通じて織田に寝返っている。が、これは信長の許可無く投降を秀吉が許したもので、いったんは信長も投降を拒否している。が、秀吉の説得により織田方として認められている。美作攻撃では攻撃の緩慢を信長に指摘されているものの、幼い跡継ぎ秀家が心配だったこともあってか、秀吉には尽くしたようである。1582(天正10)年病死。喪は1年隠されたとの説もある。