石田 三成(いしだ・みつなり)

生没年 1560~1600.10.1
名前 佐吉、石田三也
官位 治部少輔

近江国坂田郡石田村生まれ。長浜城主となった羽柴秀吉に仕えた。中国攻めに従軍し、賤ヶ岳の戦いでは七本槍に次ぐ武功を立てている。堺の奉行、九州攻め兵站担当、博多再興、太閤検地などに活躍。東国各大名の取り次ぎも多くこなした。小田原の役での忍城攻め失敗が名高い。当初は水口城主、その後佐和山城主19万4千石を領している。

朝鮮出兵では船奉行を務める。渡海もし、碧蹄館の戦いでは小早川隆景と奮戦している。小西行長と共に秀吉を欺いての和平交渉も試みている。が、秀吉の死後朝鮮出兵で武断派と文治派の対立が確定的になり、福島正則・加藤清正の7将襲撃により佐和山への蟄居を余儀なくされた。

家康上杉景勝征伐で東征したタイミングで、毛利輝元・宇喜多秀家らを担ぎ挙兵する。西軍諸大名を集合した大体制で、プロジェクトリーダー、フィクサーとしての面目躍如である。が、裏切り・内通も多発し関ヶ原本戦では敗れる。逃亡中を捕らえられ、京都六条河原で処刑された。

石田三成の讒言によって不利益をうけた石田三成被害者の会メンバーは広く、当戦国時代人物名鑑でも「#三成さん、またあなたですか」というタグで確認することが出来る(鋭意実装中)。が、関ヶ原敗戦後の敗者に容赦ない徳川体制で書き散らされた内容ばかりであり、1件1件が本当に三成が秀吉に上げた内容かどうかと言われると微妙である。そのような視点もあり、近年、石田三成の再評価は目覚ましい。

が、石田三成は悪く言われるのは当然なのである。なぜか。石田三成が悪く言われるのは「細川ガラシャが抵抗して死んだため人質政策を中止した」「島津の献策を容れなかった」「家康より書状の数が決定的に少ない」等など。これらは、石田三成が関ヶ原で敗れたことの原因となる要素に対し、いちいちあげつらうものである。それは、根底にある「関ヶ原で勝っていれば豊臣家は滅亡しなかった」という歯がゆさから来ており、翻って石田三成の挙兵路線・家康対立路線が正しく、福島正則・加藤清正の家康融和路線が豊臣家にとって誤っていたことを知るが故の批難である。秀吉麾下の行為についても、権勢をかって独善的な行動をせずに諸将と融和に努めていれば、関ヶ原で武功派の離反を招くこともなかったという結果として、石田三成は批判されればされるほど、石田三成の正当性が証明されるのである。

昔戦国時代のチャットルームで「各省庁に戦国武将の誰をあてるか」議論した際に、あらゆる省庁の事務次官に石田三成は推挙されていた。事務能力は日本一だろう。なぜその能力と、正しい政策をもって豊臣家が滅亡したのか。施政で民衆を平伏させた割に、同僚たる武将の人心を捕らえきれなかったこともあるが、やはり要所要所の判断ミスを追及したくなるのだろう。石田三成は悪く言われて良いのである。