蘆名 義広(あしな・よしひろ)

生没年 1575~1631.6.7
名前 喝食丸、平四郎、蘆名盛重、蘆名義勝
官位 主計頭

佐竹義重の次男。最初白河結城氏、次いで蘆名氏に養子入りする。蘆名氏への養子入りについては、親伊達派家臣からの反対もあったが、佐竹家が豊臣と通じていることも判断材料となった。元々の家臣と義広家臣の軋轢もあり、猪苗代氏の離反を招いた。そんな中、摺上原の戦いで敗れ蘆名義広は黒川城から落ち延び常陸へ逃げ帰った。伊達政宗の行為は惣無事令違反であったが、小田原の陣には常陸国内で転戦中で秀吉拝謁出来ず、旧領回復は出来なかった。

関ヶ原の戦いでは兄・佐竹義宣のように上杉景勝寄りの行動を取り改易。佐竹家家臣として角館1万6千石を領した。孫の代に嗣子断絶。