足利 義政(あしかが・よしまさ)

生没年
名前
官位

父はくじ引き将軍足利義教、母は日野重子、妻は悪妻日野富子。室町幕府第8代将軍。1443年兄義勝が早世し家督を継ぐ。すでに京都はけだるい政治情勢であった。嗣子が生まれないことから弟足利義視を後継とするも、そのタイミングで足利義尚が生まれる。斯波氏・畠山氏の御家騒動とも連携し勃発したのが応仁の乱である。京都人をして太平洋戦争以上の戦争と言われる応仁の乱は日本全国に波及した。義政は政治を放棄し、日野富子が政治を専横する。1473年将軍を足利義尚に譲る。社寺詣で・遊山・酒宴に励む。

日本を戦国時代に追いやった暗愚の将軍…と言うのは簡単だが、幕末長州藩と同じで有能な将軍だと殺されていたような時代情勢である(現に足利義教はキレすぎて殺されている)。土一揆による徳政令濫発や豪奢生活による財政悪化は悪政の特筆される事項だが、北山文化と並ぶ東山文化の勃興は、足利義政が禅僧を外交・文化顧問として重用したことが端緒となっている。五山文学の盛り上がり、東山荘造園による建築技術の進展と庭園造園術の進歩、襖や屏風、猿楽からの能楽発展、書院造りからの生け花・侘び茶の勃興など。近世日本文化、つまり現代までつながる日本的なものは東山文化由来であることを思うと、室町の堕落が日本を規定したと言えよう。