足利 義昭(あしかが・よしあき)

生没年 1537~1597.8.28
名前 覚慶
官位 左馬頭、参議、左近衛中将

出家していたが兄・義輝松永久秀に弑殺されると、近江・和田惟政の館に逃れる。1566年2月に還俗し義秋を名乗り、若狭国を経由して越前の朝倉義景に身を寄せる。ここで朝倉の上洛を画策していたが叶わず、結局美濃の織田信長を頼る。頼った2ヶ月後に上洛に成功、その翌月には念願の征夷大将軍の地位に就くことになる。

が、歴代の足利将軍よろしく、織田信長の傀儡に過ぎず、これまで歴代将軍と同じように独自の政治的動きを見せ、信長から幾度も殿中の掟や異見書を提示されることになる。足利義昭はペンの力で諸大名に働きかけ、信長包囲網、反信長同盟を形成するに至る。妹婿の浅井長政に裏切られ、戦国最強の武田信玄に軍を起こされと信長も散々に追い詰めた。が、相手は織田信長、姉川の戦いで勝利し、比叡山に火を放ちとしつこく戦う。包囲網側も朝倉義景の拙速もあり、最後は槙島城に挙兵するも京を追われ、これを持って室町幕府滅亡とされる。

が、義昭自身は征夷大将軍のままで、上杉謙信・本願寺・毛利による第二次信長包囲網をはじめ、備後の鞆で諦め悪く信長に抵抗する。が、義昭をかくまった毛利はかつての家臣・明智光秀による本能寺の変において羽柴秀吉を追撃せず明智討伐に力を貸すことになる。最後は島津討伐に向かう羽柴秀吉と面談し、京都へ戻る。准三宮として1万石を賜り、秀吉の話相手として余生を過ごす。秀吉を猶子にして征夷大将軍を継がせる件を拒否したことだけが特筆されよう。