朝倉 孝景(あさくら・たかかげ)

生没年 1428.4.19~1481.7.26
名前 小太郎、孫右衛門、弾正左衛門尉、教景、繁景、(敏景)
官位

朝倉家は越前守護代の家柄である。斯波義敏が守護となっていたが、斯波義廉との間で対立があった。足利義政の支持も有、朝倉孝景は義廉のもと1458年より敦賀郡で21度の合戦により義廉を守護にすることに成功した(敗れた義敏は大内氏へ)。その後も越前国内で合戦に明け暮れ越前統一を進めた。応仁の乱では義廉を奉じて西軍につくが、甲斐常治の動向もあり1471年よりは東軍につき、足利義政の御内書をうけ越前の支配権を公認される。斯波義廉の守護代・甲斐常治を圧倒し越前一国を掌握し、本拠を一乗谷に定め朝倉氏の戦国大名化を成し遂げた。子・氏景に宛てた『朝倉孝景十七箇条』は著名である。