荒木 村重(あらき・むらしげ)

生没年 1535~1586
名前 十次郎、弥助、弥介、道薫
官位 信濃守、摂津守

摂津の武将。荒木氏は丹波波多野氏の一族とも言うが詳細は不明。

池田勝正に従い、池田氏が信長に従ったのに従う。三好三人衆と戦い、和田惟政と戦い、足利義昭槙島城に攻める。池田勝正が出奔した際に池田家中をまとめ上げ頭角を現わす(後に池田勝正の弟知正義昭に味方し没落している)。伊丹親興を滅ぼし、摂津一国を信長から任される。播磨浦上氏を攻めたり石山本願寺と戦ったりしていたが、1578(天正6)年突如有岡城で謀反。与力の中川清秀の兵が本願寺に兵糧を売ったことに釈明を恐れたという。しかし実際には事前に毛利氏に通じていた節が見られる。毛利氏の工作が成功したと評価出来るだろう。高山右近や中川清秀は当初村重と行動を共にするが切り崩されている。毛利に援軍を頼むためとして嫡子村安の尼崎城、花隈城と転々としたが、その間先に落ちてしまった有岡城にいた妻のだしをはじめとする一族36名は京都六条河原で処刑、有力家臣の妻子郎党(ざっと620余人)は磔や焼き殺しにあっている。それでも安芸へ落ち延び村重は生きのびた。

道薫と称し尾道、ついで堺で茶人として生きた。秀吉に茶人として仕えたという。