明智 光秀(あけち・みつひで)

生没年 1516?~1582.6.13
名前 十兵衛、惟任光秀
官位 日向守

明智氏は名門土岐氏の庶流であるが、光秀が明智氏出身かは定かではない。美濃出身ともされるが確定的ではない。

当初朝倉義景に仕え、足利義昭が朝倉氏のところにいたあたりで足利義昭に仕えるようになったとも言う。細川藤孝の配下だったという説もある。義昭が朝倉氏を離れ織田氏を頼るようになったときに取り次ぎで重きをなす。1568年、足利義昭は美濃へ赴くが、それからしばらくは義昭家臣と信長家臣を兼務することとなった。

京都上洛後は、信長から政治的才幹を認められ京都で仕置・諸政に従事した。坂本を与えられ、比叡山焼き討ち後の対応を行っている。一方で、金ヶ崎の退き口・三好三人衆襲撃の撃退など軍事的活動も行っている。足利義昭が反信長の姿勢を取った際、最終的には信長についている。

その後、丹波攻略の方面指揮官となる。その仕事の傍ら、石山本願寺攻撃や信貴山城攻め・荒木村重討伐に従事した。波多野秀治を滅ぼすことに成功、方面司令軍では4年余りという最短での達成であった。丹波一国を与えられた。

武田攻め従軍後、徳川家康接待役を任される。が、その仕事の途中で羽柴秀吉の応援へ赴くこととなった。6月1日丹波亀山城を出陣するが、6月2日未明突如本能寺に織田信長を襲い謀反。本能寺の変という戦国最大の事件を起こした。安土城を接収し近江・美濃を抑えて京都に地子銭免除を布告するなど人心収攬に努めたが、味方は少なかった。毛利と講和し中国大返しで一揆に畿内に戻ってきた羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。最後は小栗栖で土民に襲撃され自刃。享年67(当代記)とも55(明智軍記)とも言う。

本能寺の変について、黒幕がいたのか、光秀の意図は何だったのか、歴史学の軛の中では実証することは出来ず、真相は謎のままである。大きな事件故に黒幕がいただの、耐えがたい恨みがあっただのついつい憶測してしまうのは、400年前から変わっていない。

だが、光秀の本能寺の変の時の動きは少し精彩を欠いている。とにかく信長を弑すことが謀反成功の絶対条件と見抜いているあたりは流石なのだが、それ以降のことがあまり考慮されていない。山崎の戦いにおいて籠城を選択しないのは慧眼であるが、判断は後手後手であった。とにかく信長 を殺すことに想いが集中しすぎに思える。戦国時代にも鬱はあったのだろう。光秀は少し疲れていたのではないか。織田家家臣としての光秀は勤め人の鑑である。何でも出来るスーパー人間。秀吉を超える出世スピード。そんな中、調子よかった仕事が少し上手くいかなくなって魔が差すことだってあっただろう。世の本能寺の変に関する考察では、このあたりの配慮が一切欠けている。学生や学者では人生の経験値が薄いがため仕方ないと言われても仕方ない。

なお、歴史学の観点では上記は立証不可能である。歴史学を超えて類推するときに、その人の生き様がその推測には反映されるのである。黒幕がいた!恨みがあった!天下取りの野望があった!と大上段に構えるのはまだまだ青い証拠である。ちょっとの出世遅れでも人は焦るし、主君に少し冷たくされただけでも嫌な気持ちになることはあるのである。母親を見殺しにされなくても、信濃で信長に折檻されなくても、坂本・丹波を取り上げて石見・出雲を攻略するまで路頭に迷うことにならなくても、恨みに思うことはあり得る。