松平 春嶽(まつだいら・しゅんがく)

生没年 1828.9.2~1890.6.2
名前 慶永
官位

田安徳川家3代徳川斉匡の八男。12代将軍徳川家慶は従兄弟にあたる。

1838年前藩主松平斉善の死去を受けて福井藩主を継ぐ。財政再建・藩校明道館の創設・西洋軍式の導入など、雄藩の資格を満たす政策を有能な家臣の登用を持って実施した。1858年には熊本から横井小楠を招聘している。

なお、阿部正弘の諮問においては開国論を答申している。将軍後嗣問題では一橋派として動き、日米修好通商条約の無勅許締結には不時登城して抗議したことから、大老・井伊直弼と対立。隠居謹慎に追い込まれる。1862年、島津久光の動きで政事総裁職に就き、将軍後見職の一橋慶喜を補佐することになる。が、攘夷一辺倒の公家と対立し、一橋慶喜の罵倒までくらい、総裁職は辞任。8月18日の政変で長州系公家が都落ちし、公武合体派が優勢となったが、第二次長州征伐が終わる頃には薩摩藩や土佐藩も藩主はさておき倒幕の動きを止めることは出来なくなっていた。親藩にして西洋事情にも通じ西洋諸藩との交流もあった越前福井藩の立場として、公武合体の意見を捨てることはなかった。坂本龍馬に大政奉還論を教えた一人であったとされる。大政奉還実現後の小御所会議では公武合体派の議定として臨むが政治的には敗れた。その後は徳川宗家救済に奔走。1870(明治3)年には一切の公職から退いて執筆活動に専念した。