松平 容保(まつだいら・かたもり)

生没年 1835.12.29~1893.12.5
名前 銈之允(けいのじょう)
官位 左近衛中将、侍従、若狭守、肥前守

美濃高須藩藩主・松平義建の六男。1848年叔父・松平容敬の養子となる。1852年9代藩主となる。

桜田門外の変後に幕府と水戸藩の関係修復に尽力する。1862年、京都守護職の新設に伴い、松平春嶽の推挙もあり容保はこれに推される。会津藩財政は火の車であり、藩内では反対意見が相次いだが、そこは幕府命の会津藩、結局は拝命することとなる。

1868年まで会津守護職として全うした。新選組・京都見廻組の設置による京都治安の向上、禁門の変における蛤御門防衛などと孝明天皇からも信頼が厚く、御製と書翰を拝領している。

大政奉還後の鳥羽伏見の戦いでは、ずっと慶喜に従い、錦旗が出た後には会津桑名両藩の暴発を危惧する慶喜に家臣から引き離され江戸へ船で連れてこられてしまう。そのまま江戸から会津で謹慎をすることとなった。が、西国各藩から恨み(逆恨みでもあるのだが)を買っていた会津藩、江戸攻撃の行き場の先としてスケープゴートにされてしまう。東北諸藩は歩調を合わせ奥羽列藩同盟で必死に助命嘆願を行うも黙殺。会津戦争に突入する。無理を押してよく戦ったが、二本松少年隊の悲劇、白虎隊の悲劇などを経て会津若松城は開城した。

東京、陸奥半島の斗南で謹慎するが、1872年に赦免。日光東照宮宮司として晩年を過ごした。賊軍となってなお孝明天皇の書翰を公にすることはなかった。

さて、会津藩に多大な犠牲を強いた藩主としての結果責任を問う声が150年経っても存在する。が、江戸開城後1869年の段階において無血で会津藩が生きのびながら得る方法はまずなかっただろう。藩主の命を持って赦免を請うべきとの意見もあるが暴論である。自分の命が一番大事な戦国時代ならつゆ知らず高度に観念化が進んだ江戸時代においては殿様の首を差し出す行為は国内外が許さなかっただろう。そんな西国諸藩の恨みを買うことも無かったのに、という向きには戦術的に炎上させることが目的で違法行為をする勢力を放置するのは政治の業務放棄でしかない。

薩長土の怒りも分からなくはない。だから、報復をしてしまうのは分かる。その野蛮な気持ちを理解せず、会津藩にだけ責任を問う輩はテロ容認の危険人物である。明治維新が無血革命というは嘘で、人殺しがあってこその改革であった。我々後世の人間には、過ちを是として抱擁することが求められているのであって、責任追及が求められているのではない。

会津藩は、とにかく真面目だった。真面目に勉強していたのは朱子学というのは悲劇であるが、まさに真面目な人間が損をする典型である。薩長政府は会津藩と同じ道を第二次世界大戦でたどったことを、我々は忘れるべきではない。