徳川 慶喜(とくがわ・よしのぶ)

生没年 1837.9.29~1913.11.22
名前 七郎麿、昭致
官位 左近衛中将、権大納言、内大臣

江戸幕府第15代将軍。日本史における最後の征夷大将軍である。徳川斉昭の7男。江戸生まれ。水戸育ち。徳川斉昭からは厳しく育てられ、寝相の悪さを矯正するため枕に刀をセットされた話は有名である。諸大名から養子として嘱望されたが、阿部正弘徳川斉昭の談合により一橋家の養子となる。将軍継嗣問題で一橋派の諸大名に擁立されるが、結果14代将軍となることは叶わず、大老・井伊直弼に隠居・慎みの処分を受ける。勅諚により将軍後見職となった慶喜は、幕政の諸問題に向き合うこととなる。長州による賀茂社・石清水八番宮行幸への供奉を行うがその後長州藩は京都で失脚。参与会議が創設されるが、島津久光松平慶永・伊達宗城を酒席で批判して参与会議を崩壊に導く。公武合体派の諸侯が京都を離れた事により、長州では進発論が盛んとなって禁門の変が勃発した。その際、禁裏御守衛総督として、薩摩・会津らと共に長州と戦う。

第二次長州征伐中に将軍家茂が大坂で死去すると、勝海舟によって停戦に持ち込み、その後徳川家相続し将軍となる。土佐藩建白の大政奉還を受容れ諸大名へ通告。倒幕の大義名分を薩長から奪ったが、王政復興の大号令で鳥羽伏見の戦いへとつながった。錦旗の御旗が出され朝敵となった慶喜は松平容保・松平定敬を連れ去り江戸へ逃亡。江戸、次いで水戸で謹慎となった。幕府は勝海舟に交渉を丸投げし江戸城無血開城を実現した。結局は上野彰義隊の戦いは起き、会津藩がスケープゴートになったものの、内戦は最小となったのは慶喜の判断によるところが大きいだろう。

徳川家は駿府70万石の一大名となり、家督相続した徳川家達に付き従い、1897(明治30)年まで駿府で悠々自適の暮らしを行った。最後は明治天皇に謁見し、徳川宗家とは別家を立て公爵に連なっている。大正の時代まで生きて死去。司馬遼太郎の言葉を借りると、慶喜の死によって江戸は急速に遠い時代となった。