徳川 家茂(とくがわ・いえもち)

生没年 1846.閏5.24~1866.7.20
名前 菊千代、慶福
官位 左近衛中将、権大納言、内大臣

紀州藩主・徳川斉順の子。徳川斉彊の養子となり、1849年紀州藩主を継ぐ。将軍継嗣問題で譜代大名を中心とした勢力に推され、1858年6月継嗣とされ江戸城に入る。1858年10月征夷大将軍の宣下が行われた。

時代は桜田門外の変を経て、公武合体の流れとなり1862年皇女和宮と婚儀。島津久光の上洛と江戸派遣をうけ、一橋慶喜を将軍後見職とした。慶喜と攘夷問題に向き合っていくこととなった。

1865年閏5月上京し、長州問題に当たることとなる。10月には兵庫開港問題で朝廷の幕政干渉に反発し将軍職辞退を申し入れている。1866年長州に劣勢な幕軍の情勢を聞きながら大坂城で死去。以外は海路江戸へ運ばれた。

一橋慶喜ら幕閣には幕府体制強化の考え方が主流だったが、勝海舟の直訴による諸藩から学生を受け入れての神戸海軍操練所の開設を了承していたりする。幕臣からは相当慕われていたと記録に残っている。