高杉 晋作(たかすぎ・しんさく)

生没年 1839.8.20~1867.4.14
名前 暢夫、谷梅之助、谷潜蔵
官位

長州藩上士の高杉小忠太の長男。吉田松陰の松下村塾では珍しい上士出身者であった。1858(安政5)年には江戸へ官費留学し、安政の大獄で伝馬町獄へつながれた吉田松陰に筆紙・金銭の差し入れを行っている。

1861年、上海に渡航。そこで見たのは西欧列強に顎でこき使われる漢人の姿だった。日本の行く末に危機感を持った晋作が取ったのは、尊皇攘夷だった。英国大使館焼き討ちに打って出て、藩論の転換を試みた。列強との軍事力差を確認して攘夷に出るのが晋作の面白いところであり、当時の攘夷一辺倒の世論と社会の動かし方を分かっていたのだろうと思われる。1863(文久3)年京都で剃髪、「東行」と号し萩で隠棲。が、攘夷決行で諸国の反撃を喰らうと、軍備立て直しのために庶民の入隊を許可した奇兵隊を結成した。寄せ集めの奇兵隊、軍律は厳しくしていたが事件は起き、野山獄につながれる。が、四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため牢を出され交渉を行う。第一次長州征伐後統一された徹底恭順の藩論のもと、晋作は九州へ落ち延びる。が、下関でクーデターを起こし奇跡的に成功。

第二次長州征伐では圧倒的劣勢の中戦術や新兵器で勝利を掴んだ。が、病魔に冒されており結核で死亡した。