島津 斉彬(しまづ・なりあきら)

生没年 1809.9.28~1858.7.16
名前 忠方、邦丸、又三郎
官位 兵庫頭、豊後守、修理大夫、薩摩守

10代薩摩藩藩主島津斉興の子。曾祖父島津重豪の影響を強く受ける。が、その放蕩財政の影響に痛い目を見ていた調所広郷らに警戒され藩主就任が実現できずに過ごすことになる。父・斉興の側室お由良の方が実子・久光を世継ぎにしようと呪詛しているとの噂が流れ、斉彬派の家臣がお由良の方暗殺を仕組んだとし、粛清が行われる。が、斉彬の英邁さをよく知る老中・阿部正弘が介入し斉彬はようやく家督相続することとなる。

1851年藩主となった後の斉彬は集成館事業として富国強兵・殖産興業を行う。薩摩切子も斉彬の時代開始である。阿部正弘との連携により公武合体・雄藩連合を促進し、将軍継嗣問題では一橋慶喜を推した。また、将軍御台所に島津家出身の近衛敬子(篤姫)を輿入れさせることも行っている。

井伊直弼の大老就任により情勢は悪化。なんと武力上洛を計画していたが、準備の最中コレラにて死去。暗殺説も流れたが真相は定かではない。

井伊直弼にすら天下の英傑と評された幕末初期の英邁藩主であり、西郷隆盛が終生私淑した唯一の人物。その存在は大きすぎたと言える。