佐久間 象山(さくま・しょうざん)

生没年 1811.2.28~1864.7.11
名前 啓之助、子明
官位

松代藩で祐筆を務めていた佐久間国善の子。早熟にして暴れん坊。父・国善は藩主・真田幸貫のお気に入りで、屋敷に下向することもあったという。その神童ぶりは早くから藩主も知っていた。

1841年、藩主幸貫が老中となると、海防八策意見書を提出。江川坦庵のもとで砲術を学んだ。

1851年、免許制度でなく天下に広く砲術を教えるべきだと、江戸木挽町に西洋砲術と兵学を教える塾を開いている。漢学も同時に教えられていることが特徴で、これは技術は西洋、道徳は東洋に学ぶという深淵から来ている。門人を列挙すると、勝海舟吉田松陰坂本龍馬橋本左内河井継之助、山本覚馬、加藤弘之などそうそうたる面々である。海舟の号は象山の書斎より来ており、海舟の妹は象山に嫁いでいる。

ペリー来航に際し、阿部正弘に意見書を出すなどしていたが、吉田松陰の密航未遂に連座して国元蟄居となってしまう。国元では落ち込むことなく地震予知機や電池など研究開発に勤しんで忙しかったらしい。土佐藩や長州藩は象山を迎え入れようと勧誘として中岡慎太郎や久坂玄瑞を寄越している。単純攘夷一辺倒の久坂玄瑞に西洋技術が突出している状況を説いたこともあり、長州藩はイギリスへ留学生を派遣している。象山は故郷・松代藩で反省会改革を行おうとしたが、幸貫は既に亡く、家老の前で下らない人物は藩政に付けるべきではないと本当のことを言う象山に味方は少なく孤立していた。

1864年、将軍家茂が上洛を要請してくる。攘夷一辺倒の京都へ行くことは死地へ行くも同然だったが、平然と象山は上洛した。公家衆・将軍と謁見し自説を説いている。8月18日の政変を受け、天皇を彦根へ遷座する計画を立て、攘夷派の怒りを買っている。1864年7月、供を一人連れただけの状態で白昼堂々と殺害されてしまった。暗殺に加わった肥後の河上彦斎は、あとでその業績を知り暗殺は控えるようになったという。