西郷 隆盛(さいごう・たかもり)

生没年 1827.12.7~1877.9.24
名前 小吉、吉兵衛、吉之助、隆永、菊池源吾、大島三左衛門
官位

薩摩藩士西郷隆盛の長子。本来は隆永が諱なのであるが、明治維新時に思いっきり父の諱と間違えられたことからそのまま自身の名としている。

1844年郡方書役助となり、農政に携わる。鹿児島の農民は突出して搾取されており、得難い経験を積んだらしい。お由良騒動で恩師・赤山靭負が切腹。隆盛は血衣を見る。

斉彬の家督相続後、斉彬から抜擢され庭方となる。斉彬のあらゆる工作活動に携わる。このとき各藩に顔も売ったようだ。斉彬への私淑は生涯永遠だった。が、斉彬は死去。匿おうとした月照は新体制の薩摩藩で受入拒否となった。隆盛はここで月照との自殺を選ぶも、自身だけ蘇生してしまう。薩摩藩に匿われる形で奄美大島へ遠流となった。

寺田屋事件前に久光に呼び出されるが、久光の不興を買い、今度は喜界島に罪人として島流しにされる。禁門の変前に諸事仕切れる人間は西郷しかいないことがようやく判明し呼び戻され、禁門の変の指揮を執る。薩長同盟・第二次長州征伐に関与。

維新後は陸軍大将を務めるなど重きをなしたが、明治6年の政変で下野。不平士族を朝鮮へ出兵させる征韓論の立場に立っていたが、隆盛自身は本当に朝鮮に殺されに行きたかった節がある。いよいよ疲れて自殺願望が芽生えていたか、慈しみを感じていた隣国の目覚めを期待していたのか定かではない。日本の弱小ぶりを見て来た岩倉使節団の反対で断念。鹿児島では私学校の総裁に祭り上げられる。部下が蜂起を決意しても止めることなく、命を捧げた。最後は城山で自刃。西郷隆盛が率いる旧武士軍団が徴兵令でかき集めた新政府の軍隊に勝てなかったことから、不平士族の武力蜂起は止まり自由民権運動へ移行することとなった。