孝明天皇(こうめいてんのう)

生没年 1831.6.14~1866.12.25
名前 (さんずい)煕宮、統仁
官位

仁孝天皇の第4子。学問好きの父の影響を受け、六国史等を学ばれた。在位1846~1866

孝明天皇の政治姿勢は一貫しており、

  • 終始攘夷を熱望
  • 過激攘夷の立場は取らない
  • 倒幕は考えない

である。

日米和親条約の際には鷹司政通に従い勅許を認めている。が、日米修好通商条約の際には反対し、鷹司政通も同調した。これにより幕府は勅許が得られず、最後は井伊直弼が無勅許で締結に至った。井伊の死後、朝廷と幕府の関係修復として和宮降嫁が決まった。長州藩の影響もあり賀茂社や石清水八幡宮行幸は実行されたが、大和行幸には暗に反対し、会津と薩摩の手により8月18日の政変が引き起こされている。長州征伐後、長州再征を認め、さらに一橋慶喜の超説得により4カ国条約を認められた。

だが、曾孫に当たる昭和天皇も彷彿とされる「異を唱えられる」天皇の時代でもあった。

最後は疱瘡にかかられ崩御。昭和期から他殺説も唱えられたが、説が流れるだけでも当時の状況は今では考えられない時代であったと言えよう。幕末の政治情勢を形作られたといって良い。松平容保に信を置いていたことでも有名である。幕末の政治情勢において素に仕える不器用な容保が唯一の心のよりどころであらせられただろう。