後藤 象二郎(ごとう・しょうじろう)

生没年 1838.3.19~1897.8.4
名前 保弥太、良輔
官位

土佐藩上士出身。義叔父の吉田東洋の私塾で学び可愛がられていた。が、吉田東洋は土佐勤王党により暗殺され、その抜擢はいったん解かれることになる。江戸へ遊学へ出て航海術や蘭学を学んだ。

8月18日の政変で勤王派が全国的に劣勢となると大監察となる。吉田東洋と同じく藩を背負う立場となった。行ったことと言えば土佐勤王党の弾圧である。武市瑞山切腹に関与した。

藩の貿易機関として長崎に土佐商会を設立。その浪費っぷりは問題であったが容堂のお気に入りで治外法権であった。その後、あろうことか相互に恨みのあるはずの坂本龍馬と連携、龍馬に海援隊を設立させ資金援助を行った。龍馬が広い交友関係で仕入れてきた知見や思想が公武合体を棄てきれない土佐藩とマッチした。龍馬の教えてくれた大政奉還を容堂に建言。山内容堂はよく考えついたとこれを絶賛した。大政奉還は実現された。

新政府で要職を歴任するが、征韓論がらみの明治6年の政変で辞職。愛国公党の設立を板垣退助と行い民選議院設立の建白書を提出した。自由党で活躍するも、逓信大臣に就任し自由民権側で波風を立てたのは相変わらずであった。

後藤象二郎の功績として、土佐藩の借財を長崎の土佐藩関連資産共々岩崎弥太郎に全部一緒に押しつけ整理したという1件がある。岩崎弥太郎はこれによって三菱財閥を形成するに至った。やはり、後藤象二郎の醍醐味はこの手の豪放な政治決定と言えよう。