大久保 利通(おおくぼ・としみち)

生没年 1830.8.10~1878.4.14
名前 正助、一蔵、利済
官位

鹿児島生まれ。下士出身。1850年、父利世がお由良騒動で流罪となり、利通も記録所書役助を免職となる。1854年の赦免まで忍従を強いられる。斉彬死後、藩内の尊攘派で脱藩挙兵を計画するが、藩主忠義から諭達書を与えられ思いとどまる。久光と親しい吉祥院に囲碁を習うなど、久光と繋がる下準備を行っていたのである。偉大なる兄の跡を受けて家内基盤が脆弱な久光ととにかく家中で影響力を持ちたい利通の出世欲がここに結びついた。利通は誠忠組のトップとして久光の片腕として活躍することになる。寺田屋事件では同志を救うことなくスルーするも、西郷隆盛の復帰を働きかけるなど、その立場を慎重に運用した。第二次長州征伐の時は耳が悪いふりで老中・板倉勝静の命令を無視。老中の幕命を陪臣が拒否する幕末らしいクソ度胸を示した。岩倉具視とともに討幕の密勅を仕立てるが、大政奉還で慶喜にしてやられる。利通は王政復古の大号令で逆転した。

その後版籍奉還・廃藩置県を断行し、岩倉使節団で米欧諸国を視察。内務卿として警視庁創設に尽力した。地租改正や台湾征討に携わった。西南戦争では西郷隆盛と袂を分かつ。鹿児島士族の怨嗟を一身に背負う。1878年、紀尾井坂で石川の不平士族に暗殺された。参議として月何日か赤坂離宮に出仕していることに目を付けられての暗殺だった。暗殺前に斬奸状が各新聞社に送られていたが、遺族が遺産を調べてみると資産140円、借金8000円という結果だった。私財を明治政府に投入して全身全霊を新政府に捧げていたのであった。

大久保利通は間違いなく近代日本の方向性を定めた人間であるが、とかく評価が低い。政敵・江藤新平の容赦ない殺害など人間味もたっぷりであるが、郷土・鹿児島での評価が低すぎる。……西郷隆盛と比較されたのでは溜まったものではないが、「自分のやりたいことをやりたければ出世しろ」を地で行く生涯だったわけだ。結局は強い意志で物事を強力に進める人間がいないと、改革というのは何事も進まないのである。