大原 重徳(おおはら・しげとみ)

生没年 1801.10.16~1879.4.1
名前 常丸、常麿、徳義
官位 大和権介、左馬頭、侍従、右近衛中将、左衛門督、参議、権中納言

兄・大原重成の養子となり兄の死を受け大原家当主となった。攘夷論を唱え、徳川斉昭に働きかけるために京都を抜け出したりしている。1862年勅使として島津久光と江戸へ赴き、一橋慶喜の将軍後見職と松平春嶽の政事総裁職就任を実現している。1863年1月、勅諚改竄の罪で閉門となる。1864(元治元)年赦免となるも、1866年朝廷改革の権限により閉門となっている。その後1867年再び許され、小御所会議では徳川慶喜対応を巡り山内容堂と論争した。王政復古の大号令後に参与となる。その後、議定・集議院長官を務めた。